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''寄稿''

[2016.08.20]

東アジアから日本の平和憲法改正を考える

アジア平和文化交流の会・韓國 理事 朴耿緖

 アジア太平洋平和文化フォーラム5周年記念イベントの開催を祝いながら、今回の記念行事に招待されて感無量です。
 韓半島をとりまく北東アジアは、北朝鮮の核問題とそれに関連した中国の影響力増大と周辺国への圧力強化、南シナ海問題における米国の露骨な干渉、日米軍事同盟の強化と日本の戦争する国への転換と促進、それに続く韓国内へのサード配置など、緊張が高まっています。
 第2次世界大戦後、冷戦時代を経て、アジアをはじめ世界各国で軍備拡大競争、領土紛争が続きました。しかし、北東アジアで軍事的衝突を避けることができた大きな要素の一つは、日本の専守防衛策とそれを支ええる「平和憲法」にあったと言えます。

 日本の憲法第9条は、第2次世界大戦での日本帝国主義によるアジア・太平洋への侵略を反省し、国際平和を永遠に希求維持すると宣言しています;

<憲法第九条・条文>
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

しかし、昨年9月の「安全保障法」(戦争法)の強行採決、この7月10日にあった日本の参議院選挙で、安倍首相の連立与党の大勝し、改憲発議の可能な改憲賛成議員の三分の二を確保したことで、現行平和憲法の改憲の企みが現実化するという事態になってきました。

 安倍首相は、戦争および武力行使を禁止した現平和憲法9条を改正し、日本を戦争可能な国に変貌させることを、自身の生涯の課題だと言明してきました。
 このような安倍首相の振る舞いに、韓國をはじめとするアジアの多くの人たちは大きな不安を持ち、日本が戦争する国に変貌することが、現実問題となってきていると考えています。
 つまり、過去の歴史に対する明確な反省を否定してきた日本の執権党の平和憲法改憲の試みは、かっての軍国主義復活の野心を示しており、日本の改憲論議は、不安定な北東アジアの秩序に大きな混乱をもたらすことは明らかです。
 安倍首相が執拗に推進する憲法改正は、彼の政治スローガンである戦後体制から脱却と、最近取りあげられている南シナ海や尖閣諸島問題で、日米安保軍事体制によるアジア制圧をめざすための手段と見えます。しかも最近、日本が韓國の同意なくても、自衛隊の対北朝鮮作戦参加の可能性を示唆していることは、韓・日の新しい摩擦要因として登場してきています。

 今回の安倍首相の憲法改正の動きについて国内民族団体は、1905年7月29日東京で結ばれた"桂-テプトゥ密約"の再来であり、北東アジアが米国・日本 対 北朝鮮・中国・ロシアの構図で過去の冷戦体制に還ることになると、批判の声を高めています。
 韓國では7月13日、大田(テジョン)の平和の少女像前で、日本軍慰安婦問題の正義の解決と韓半島の平和を念願して「大田(テジョン)文化祭」が行われました。そこで、「先日、元慰安婦・ユヒナムおばあさんが亡くなり、生きている被害者女性は40人になった。一日も早く慰安婦問題を解決して、戦争危機のない平和な韓半島を作って、おばあさんたちの怨念を晴らしてあげなければならない。」と誓いの言葉がありました。(元慰安婦の生存者は現在37名になりました) そして、「日本の政権が参議院選挙で憲法改正ラインを確保し、'戦争できる国'となることはもはや時間の問題」だと言い、日本の軍国主義復活が露骨に行われていると糾弾しました。
 日本の改憲作業が進めば、韓國・中国など周辺諸国では軍国主義復活を警戒する声が高まり、国際社会でも新たな緊張関係が造成されるものと予想されます。
 しかし、過去の侵略戦争を心から反省し、平和を念願する意識ある多数の日本国民の力で平和憲法改正を阻止できれば、日本の軍国主義回帰は不可能にできると信じます 。

 北東アジアの安定に絶対的な役割をしてきた日本の平和憲法9条。平和を愛するアジアの市民もまた、日本の平和憲法を必ず守護しなければなりません。平和を愛する日本の国民とアジアの市民が連帯結束し、日本の平和憲法を守護することこそ、北東アジアの軍事的摩擦を回避し、政治的安定と平和を実現する道だと見ます。
 安倍政府の時代的錯誤とミス判断で、日本の改憲が世界平和を脅かす結果を招かないことを心から願っています。

 韓國・日本・中国を中心にしたアジア平和文化交流の会は、アジアの平和をはじめ、世界平和を実現するための民間レベルの交流会です。
 私たちは皆、アジアの平和と安定のためには、多様な民間次元での平和活動が必要であり、アジアの人々が互いの文化交流を通し、それぞれの国々の文化、歴史、社会の理解をすすめ、互いに尊重し協力し合って、愛する社会を作っていくことが、世界平和を実現させる道だと思います。

 今日の記念イベント行事が、アジアの平和と世界平和に意味ある行事になることを望みながら、成功的に終わることを心からお祈りします。
 ありがとうございました。


[2015.12.16]

韓日勞災交流の想い出

(想い出シリーズ1)
源進職業病管理財團理事長 朴賢緒

 91年10 月 のある日、当時は源進職業病對策協議會・議長の職責を持っていた時のことである。“舍堂醫院”付属研究室の朴費浩さんから電話があり「先生は日本語が上手でしよう? 日本からお客さんが見えましたので、源進の患者さんにご案内を願います」と 。翌日の朝、約束の「Palaceホテル」に着いたら二人の方が待っていた。 早速、名刺を交わしたら一人は熊本医大の原田正純先生、もう一人は菊陽病院の樺島啓吉先生。 20kmほどの九里市に向け運転しながら日本語を喋り出したら思ったよりべらべら出たので我ながら驚いた。46年ぶりの初めての日本語使いであったからである 。
 前もって知らせたので、待機していた源進息者たちの検診が始まった。 私の左に原田先生が、右に樺島先生が座り、各々患者さんたちを聞診、触診等しながら、病歴や症状などをいちいちメモするのを見て感動した。 同時に二人の通訳は出來ないから、右側の通訳で5、6分以上かかったが、それが終わると今度は左側の通訳というわけで、昼食の間を除いて6時間以上の検診強行軍は終わった。 原田先生は翌日帰国されたが、樺島先生はその翌日まで検診して 国された。 兩人は「日本の息者と症状が全く同じ」と語られた。
この出會いが日韓労災交流の始發点になったのは言うまでも無い。原田先生は、其の翌年一月中旬にも來韓し、金峰煥さんの一周忌の通夜の場場にも参席され、被災者団体の総務であった丘冀一さんと症状の詳しい話を交し、その翌日には基督教病院(今の緑色病院) に長期入院していた洪元杓さんを見舞いして帰國された。

 翌92年の7 月初旬 に、再び原田先生から連絡があった。息者代表の一人( 鄭動模) 、医者の一人(朴桂烈) , 衛生技師の一人( 李允根) 、そして案内通訳として私の4 人が九州の熊本市に招かれた。熊本空港に出迎えた原田先生は、一行を車に乘せて八代市に向った。 八代市では先ず「興人會社」の労災息者たちと交流する傍ら、水俣の明水園や阿蘇山の火口なども案内巡りをし、4泊した後別れ、一行4人は列車で京都に向かった。
 京都では3泊したが 、職對連主催の盛大な交流夕食に参席し、翌日にはユニチカ工場や平等院そして奈良見學まで終えた。 京都 在3 日目にあたる日の夕方には、前もって連絡しておいたので大阪の友人の家に泊つていた妻が、一向との別れの夕食會に顔を出し、お話しなど分かちあった後、一行3人は帰国した。
 私達夫婦は其の翌日、列車で東京に行き上野で1泊した後、早朝に宇都宮に行った。駅前でタクシーに乘り中 寺湖に向つたが、途中にはあの鉱毒水流しで有名な足尾銅山があり、環境性災害についても深く考えさせられた。 そして中禅寺湖に着いたら、回りの樹木に白い花がいっぱい咲いているのに凄く驚いた。近づいて見るとなんとそれは花ではなく、御神籤の結びがいっぱい掛けられていたのである。日本人一般のアニメ信仰の深さを改めて感じさせられた。 華厳の滝では、水しぶきを浴びながら、下まで降りて観覧したのも樂しみを深くした。
 中禅寺巡りを終えたが、今度は広島に行かねばならない日程であった。広島江の道で「第3回 中國人・朝鮮人・強制連行強制労働を考える全国集會」に参加するためである。妻は大阪の友人の家で泊ることにし、集會が終わる時期に、広島の駅前で再會することを約東して別れた。私個人としても、これが生まれて初めての日本訪問旅行であった。
 後で聞けば、この日韓労災交流を支援して頂いたのは「医療法人・芳和會」が主たる支援者だったらしいとのことである 。開係して頂いた皆さんに深い感謝の念を表するところである。

 その年の1 2 月初旬、またもや原田先生から連絡があり12月20日? 頃に八代で労災シンポジウムがあるので息者代表一人を伴って來るようにと。こんどは患者代表として、女性の朴雙順さんが選ばれ、彼女の案内通訳を引き受けることになった。 然し私は他の用件で、其の前に東京に行かねばならず、東京での用件を済ました後、熊本の空港で彼女の到着を待って案内することを事前に約東しておいた。(次章参照)
 ンンポジウムの席上、彼女が韓國における労災現況を簡単に報告し、日本側から「労災間題の法的検討」を國旨直子弁護士が行った。翌日は「興人會社」を一巡りしたが、正門内の第二労組事務室を指しながら、当時反會社側労組と會社側労組との激しい軋轢話など、今は故人になった岡田さんが奈熱心に説明してくれた。

 源進財団がつくられる直前の93年10月には、熊本組(私なりにそう呼ぶ) が杖つきの息者を含めた数名が來韓し、こちら源進息者たちと深い交流を持つたことは言うまでも無い。いつもなら固く鍵がかかっていた筈の源進工場の正門が開いていたので、一行は 地内に入る事が出來、 2 階にあがって工場内部を覗いて見た。岡田さんは「興人會社の仕掛けと全く同じでずさんなものだ」と嘆いていた。

 その後、数えきれないほど訪韓して日韓 兩國労災交流を深めて頂いた重要なメンバーには、熊本の北岡秀雄 さんや千葉昌秋さん、長谷川博さんがあげられる。99年6月の「源進緑色病院」開院の時や、翌年6月の「日韓労災シンポジウム」の時も、そして 03 年9 月の「緑色病院」 開院の時も欠かさず御來韓 れるなど、相変わらずの友情を保っている上記の方達に- 改めて敬意を表したい。

 熊本組が來韓交流した1 ヶ月後には、京都職對連 (事務局長清水良子) の方達が息者を伴って訪韓し、やはり深い労災交流を結んで帰國された。京都組とは、その後も吉中丈志(京都民医連中央病院長)さん及び宇治の「あさくら診療所'」の行松龍美さんや市議會議員の宮本繁夫さんらとの交流は、今尚絶えていない事を付け加えたい。 そしてその時案内してくれた通訳ガイドの金清子さん(故人)、そして名古屋の金澤克彦さんとは、今も親しく付合っている 。

 こんなエピソードもある 。私は93年9 月台湾環境保護連盟の招待を受けて、貢料に建設を予定していた第4 原發反對運動に参加したことがある。建設反對運動が終わった後、招待側の案内で東北にある宜蘭縣の道教本山を参観 した。その帰り道で交通信号の待機中に偶然、左側に「羅東化學維會社」の看板が目に入った。通訳を通じて運転手に「レーヨンを生産するのか」と訊ねたら、「そうらしい」との答え。 「患者も出ているらしいが・・・ 、 台北市に日本人のお医者がいるから彼は良く知っているでしょう」との答えた。その話を熊本の北岡さんに伝えたら、上記のメンバー等は早速台湾に行って來たそうだが、詳しい事情は掴めなかったとのこと。それだけではない。 源進が倒産した後、その機械を古鐡として払下げたがそれが、何と中国遼寧省丹東市の某工場で今も稼働中との話をやはり北岡さんに伝えた。熊本組の一行が又、その詮索に出かけたが、確認は出來なかったとの話を聞いたことがある。被災者の國際連帶摸索に注いだ彼らの熱意には感動するばかり。

 「八代の興人」の労災救濟のためのタンポポの花は、「宇治のユニチカ」に飛び、海を渡って「韓國の源進」に飛び、更に宜蘭や丹東にまで飛ぶ筈だったと言えるだろう。八代の労災闘争のタンポポの花は、悩んで苦しむ働く人々 の永違な記念碑になるだろう。


[2015.08.20]
  私の戦争体験

平和こそ最大の合理的配慮

ゆたか福祉会 顧問 富田偉津男

 今日7月15日安倍内閣は戦争法案を強行採決しようとしている。国民の戦争法案反対が50%を上回り、まだ十分審議されていないが70%近くになる情勢でも、安倍内閣・自民党・そして平和の党と自称していた公明党などは、国民に戦争法案の実態がわからないうちに、採決しようとしている
 私は昭和9年5月生まれで今年81歳になる。安倍晋三氏のように戦後生まれと違い、戦争の恐ろしさ、無残さ、そして軍隊のためなら国民を犠牲にする、
冷血な軍国主義をつぶさに体験してきた。
 私が小学校1年生の昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃にて戦争がはじまり、まだ陽も明けやらぬ早朝、校庭に集められ校長から天皇陛下から開戦の詔勅が下されたとの訓示があった。それから2年ぐらいは連戦連勝のニュースばかりで、日本中が沸きかえっていた。
 当時は秘密にされていたが、ミッドウエイ海戦で大敗北を喫し、制空権も制海権もアメリカに握られ、やがて3年生の時にはアメリカ機の空襲が始まった。
兄と一緒に映画劇場で見ていたら、空襲だから帰宅するように言われ、空を見上げたら、B25爆撃機にゼロ戦が挑戦していったが、ライオンにハエがたかるようなもので、撃墜されるのはゼロ戦ばかりであった。
 まだ、庭に防空壕がないころ空襲警報が鳴ると1キロほど離れた神社に歩いて避難、ちょうど帰宅中だった近所の陸軍将校が避難中、焼夷弾が直撃即死した。また、国鉄工機部工場に学徒動員の中学生を引率していた近所の先生が、工場への爆撃で死亡し、自宅に運ばれてきたときには、担架から血がぽたぽた落ちて衝撃を受けた。
 また、クマん蜂のような恰好をしたグラマン戦闘機が、動くものがあれば機銃照射しているのを見て、本当に恐ろしかった。私の住んでいた浜松は飛行場や沢山の軍儒工場があり、空襲が多い都市であり、艦砲射撃も食らった街でもある。そして我が家は昭和18年空襲で爆弾が直撃、防空壕から出たら何もかもなく焼け焦げていた。子供ながらに天皇陛下や新聞は勝利勝利と言っているが
ウソだと直感した。
 軍の制服などの被服を縫製していた我が家は、一瞬のうちにすべての財産を失い、働いていた女工員6人ぐらいを引き連れて、山間地に疎開した。
疎開中は飢えることなく、また空襲に怯える日々はなくなったが、浜松市でその後の空襲で焼け出された人々が、悲惨な姿で大八車を引き放心した表情で逃げてくる姿を見て、戦争はつくづくいやだと思った。
その経験が私の原点となり、組合運動を通じて原水爆禁止運動、沖縄返還闘争に参加していくことになった。憲法9条守れ、戦争反対は私の信念である。


[2013.6.27]
拝啓、安倍晋三首相殿

 平和を心から願う韓国の一市民として、日本の総理大臣の貴方の発言に大きな危惧と不安を感じています。

1、侵略戦争について

<安部語録>
*宮沢喜一官房長官談話(教科書で周辺諸国への配慮を約束した)、河野談話、村山富市首相談話(アジア諸国に心からのおわびを表明した)、全ての談話の見直しをする必要がある。(MSN産経ニュース)
*侵略戦争をどう定義づけるかという問題も当然ある。学問的に確定しているとはいえない。さきの大戦をどのように定義づけるかということは政府の仕事ではない。歴史家の判断に待つべきではないか。(2006.2衆院予算委員会)
*(A級戦犯は) 国内法的には犯罪者でないと国会で答弁されている。講和条約を受け入れたから参拝すべきでないという論議は、全くトンチンカンだ。(2006.7)
*安倍晋三首相は24日(4月)、閣僚の靖国神社参拝に韓国と中国が強く反発していることに関し、「わが閣僚どんな脅かしにも屈しない」と反論した。韓国と中国に対し、「脅かし」という極端な表現を使いながら正面から対抗したのだ。(韓国中央日報)
*ナチスドイツが行なったジェノサイドは戦争とは関わりのない国家犯罪で、日本の戦争犯罪とは規模、目的、性格がまったく違う。(『対論集』)

我々は、「村山談話」や「河野談話」は公人の発言ではあるが、国の正式謝罪といえない曖昧で不十分なものと考えていますが、それすら否定する貴方は過去の植民地支配と戦争の事実を本当に認めず、我々に与えた辛い苦しみを顧みることはないのですか。

2、憲法について

<日本国憲法の制定>     (「ウィキペディア・フリー百科事典」より抜粋)
ポツダム宣言の受諾と占領統治
1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で、三者は「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国の蒋介石・国民政府国家主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)。この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。
 • 軍国主義を排除すること。
 • 民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること。
 • 言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること。
日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下し、ソ連軍は8月8日にソ連対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」)。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。
連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。
1. 降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」 (SCAP) に従属する (subject to)。
2. 日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。9月2日、日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。
降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部 (GHQ) を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。
日本政府および日本国民の憲法改正動向
降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。
日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した。
なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、9日に幣原喜重郎内閣が成立する。同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された。
先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。
1. 天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
2. 議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
3. 国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
4. 人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。
近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。これら民間団体が作成した憲法草案のうち、憲法研究会の「憲法草案要綱」にGHQが注目していわゆる「GHQ憲法草案」が作成された。
マッカーサー草案
総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし、総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、日本の憲法に関する動きを活発化させた。もっとも、同年1月中は、憲法改正に関する準備作業を続け、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。
マッカーサーの憲法改正権限(ホイットニー・メモ)
この時点で総司令部内で問題となっていたのは、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点であった。この点につき、総司令部の民政局長であったコートニー・ホイットニーは1946年2月1日に「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した。ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。
毎日新聞によるスクープ報道の波紋
同2月1日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが、この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった。この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。
しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。
総司令部による意思決定
そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、総司令部が草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。
2月3日、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。
1. 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
2. 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
3. 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。2月4日の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。起草にあたったホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法研究会の「憲法草案要綱」)や、世界各国の憲法が参考にされた。
2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。
日本政府案の作成と議会審議
2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。
「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。
2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。草案は3月2日に完成した(「3月2日案」)。
3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。
翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。
4月10日、衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表し、枢密院に諮詢した。
4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。
6月8日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
これを受けて政府は、6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出した。衆議院は6月25日から審議を開始し、8月24日、若干の修正を加えて[52]圧倒的多数(投票総数429票、賛成421票、反対8票)で可決した。
続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日、若干の修正を加えて可決した。翌7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。
芦田修正について
なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、芦田修正と呼ばれる修正が行われた。芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である。特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条をめぐる議論ではひとつの論点となっている。
まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。
 第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。
衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。
 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案をもとにすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。
 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この修正について、総司令部側からは何ら異議もなく、成立に至った。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。
日本国憲法の公布と施行
帝国議会における審議を通過して、10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。した。10月29日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部・顧問官など2名は欠席)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。11月3日、日本国憲法が公布された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇・皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。
 本日、日本国憲法を公布せしめた。 
この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。
 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。 — 昭和天皇による日本国憲法公布の勅語、1946年(昭和21年)11月3日
1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。1948年(昭和23年)には、5月3日は憲法記念日とされ、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」ための国民の祝日とされている。

<安倍語録>
*現憲法の前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない。(安倍晋三対論集)
*占領時代の仕組み。真の独立を取り戻すために作り直す必要がある▽参院選で堂々と96条改正を掲げて戦うべきだ。(23日参院予算委)
*憲法を改正して(日本の)交戦権を認めなければならない。(東亜日報・安部語録から)
*我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない。(衆院特別委)
*原子爆弾は小型ならば憲法上大丈夫だ。(東亜日報・安部語録・記事から)
*大陸間弾道弾は憲法上問題がない。(東亜日報・安部語録から)

現日本国憲法の成立過程からみると、貴方の発言で最も大切な認識が欠けていると言わざるを得ません。「先の侵略戦争で、日本は多大な被害と悲劇をアジア太平洋諸国にもたらした」ことへの反省です。「戦争放棄」をうたう今の平和憲法は、被害を受けた我々に対する「二度とそのようなことを起こさない」という反省への証であったはずです。
日本の戦後はこの反省からスタートし今日の繁栄を成し遂げてきたのではありませんか。
貴方はその日本を戦前の軍事国家に戻し、再び戦争をする国にしようというのですか。

皮肉を言えば、「平和憲法」として世界でも評価されている現日本国憲法の制定に尽力したのは、現在貴方が最も大切にする同盟国「米国」のマッカーサー総司令官ですよ。

貴方が70%もの国民の支持を得ているとの世論調査が発表されていますが、日本の方々はこのような「戦争をする国を目指す」安倍晋三議員を支持するということは、貴方がたも「再び戦争をする日本」目指しているということなのですか。今まで多くの日本の方々が「戦争は嫌だ、二度とあのような苦労はしたくない」とおっしゃっていたのはずではありませんか。

アジア平和文化交流の会・韓国
金善龍

[2013.4.21]

安部暴走内閣・沖縄の総意を切り捨てる

 2月23日の日米首脳会談後、安部内閣の暴走が止まらない。安部首相は「日米の絆が完全に復活した」と胸を張ったという。国民的関心の高いTPP交渉への参加を事実上表明。「日米同盟の強化」を強調し、沖縄の基地建設の促進、軍事力強化、集団的自衛権の行使検討、原発の再稼働推進などをオバマ大統領と約束した。
 安部政権は、3月22日に普天間基地の移設先としている名護市辺野古沿岸部の公有水面埋め立て承認申請を、仲井眞弘多沖縄県知事へ強行的に提出した。県民大会実行委員会、県議会、県市町村関係4団体、沖縄の41市町村議会すべてが、連名で、1月28日、安部首相に「建白書」を提出したにもかかわらず、県内移設断念の要求は完全に無視された。圧倒的多数の民意は情け容赦なく切り捨てられた。しかも防衛大臣は来年1月の名護市長選挙前までに承認するよう回答を迫っている。
 4月5日には、日米両政府が嘉手納基地以南の米軍基地6施設の統合と「変換」計画が合意したと発表。安部首相は「日米双方で沖縄の負担軽減を強い意志で示すことになった」と誇らしげに記者団に語ったという。しかし、その内容はひどいものだ。返還対象の80%は県内移設する「玉突き」。普天間基地もそのひとつ。辺野古の新基地が完了する予定の2022年「又はその後」に返還するとの時期設定である。辺野古埋め立ての布石のつもりだろうけど、あまりにも沖縄県民を侮辱している。昨年辺野古「移設」と嘉手納以南の返還は分離したのに、安部政権は再びリンクさせた。結局はすべて県内「移設」と「グアム移転」が条件付きとなり、返還の引き伸ばし、返還を拒む日米合意にしかならない。
4・28は「屈辱の日」祝えない
 安部政権は、サンフランシスコ条約が発効した4月28日に、政府主催で「主権回復の日」として、天皇皇后を招き式典を開催することを決めた。1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約と同日発効した旧日米安保条約によって、日本は形式的には独立し主権が回復したように見えるが、実質的にはアメリカへの従属国になったのが真相ではないか。特に条約3条によって、沖縄を日本から切り離し、司法・立法・行政の権限をアメリカに売り渡している。
 その後の沖縄では米軍の布令や布告ひとつで、軍用地の強制接収、銃剣とブルドーザーによる基地の拡張、基地があるが故に発生する事故・事件・犯罪は復帰後の今も絶えない。沖縄では4・28は「屈辱の日」であり、祝える分けがない。
 このような安部暴走内閣に対し、「命どぅ宝」あいちも参加する、あいち沖縄会議は、辺野古埋め立て申請を糾弾する街頭宣伝や沖縄県知事へ「埋め立てノー、辺野古の自然環境を守れ」の激励ハガキ運動を展開。普天間基地の無条件返還・オスプレイの配備撤回を訴え、この4月28日には「主権回復の日」を認めない抗議集会と市街地デモ行進を実施する。
 沖縄をめぐる緊迫した情勢下、本土での運動と沖縄県民との連帯が結びついてきた。おきなわ会議が実施する知事への激励「ハガキ運動」が自然保護団体を初め無党派の市民から集中しているという。東京の平和団体は100万枚の「ハガキ運動」を企画した。また、東京でも「4・28安保条約破棄・真の主権回復を求める国民集会」が予定されている。沖縄との連帯行動が多くの団体で統一してもっともっと進展して欲しいものだ。

「命どぅ宝」あいち 事務局長 新城正男

[2012.7.11]

「アジア太平洋・平和文化フォーラム」を考える

太田義郎

1.「私と沖縄」のこと
 もともと沖縄への関心は少なかった。昔(私の学生時代のこと)“沖縄を返せ!”とみんなと肩組んで歌った。大声で叫んだわりに沖縄への思いも殆どなかった。せいぜい「パーカーの万年筆」を7$50cで買ってもらった思い出くらいだ。
 何のことかって? 私の学生時代の沖縄は米軍の支配下でドル世界。沖縄出の友人が故郷へ帰ると「パーカーの万年筆」が2500円(7$50c)で買える。そこで買ってきてもらう交渉をする。ほぼ倍の5000円位の超高級品なのだ。僕はその万年筆を愛用した。ところがその大事な大事な万年筆を失くした。全商連の総会で落とした。実に残念だ。
 その後沖縄へ2度行った。しかし観光と所用で「平和を考える」ことと無縁だった。沖縄の歴史、報告、沖縄戦のこと等6~7冊の文献は読んだ。が、それ以上の関心へと深まらなかった。
 「ひめゆりの塔」を2度ほど観た。見て、どうも「違う」。沖縄の戦争の実体、日本軍と沖縄の人々の実体を描けていない。そんな感想を持ち続けていた。
 今年に入って驚くべき報告を聞いた。「命どぅ宝」の事務局長・新城さんの報告会でのことだ。沖縄の人々は江戸時代から今日まで2度、人によっては3度創氏改名させられたという。「えーッ、本当」思わず叫んだ。日本支配下での朝鮮半島の創氏改名は大事件と知っている。しかし沖縄の人々に対し、同じことを「ヤマトンチュー」はしたのだ。その事実はまったく知らされていない。さらにその席で、明治中ごろ、確か大阪万博の時、動物を入れるオリに“これが琉球人”と見せ物として展示されたというこの話もショウゲキだった。
 戦前から私たちは沖縄をずっと差別してきた。その事実も知らずノー天気なことだ。広津和郎がたしか“さまよえる琉球人”(ウロ覚え?)を差別の文として自己批判し絶版したことをしっている。聞いた当時「ふーん」と思った程度だった。新城さんの話で私は「知らなんだ」ことを深く恥ずかしく思った。差別した側の人間の「ノー天気」を恥ずかしく思った。

2.「アジア平和文化フェスティバル in 沖縄」(11/10、11、12)へ
 私たちヤマトンチューはずっと沖縄を植民地として支配してきた。今日基地を押し付けることで沖縄の人々の犠牲の上に「平和と安全」を手にしてきている。私は11月の「沖縄集会=アジア平和文化フェスティバル in 沖縄=シンポジウムと文化交流」はたいへん意義深いものと考えている。
 考えてみると沖縄と日本は不思議な関係だ。
 第一、沖縄は「琉球王国」で王朝の歴史400年、500年とある。民衆への支配はかなり強権的だったようだが、王朝が続き統治してきた。「琉球人」の自意識があった。この王朝史は軍隊なしに貿易で「利」を得て、外交力で生きた歴史をもつ。
 第二、中国、中華の文化圏にあった。琉球は清の冊封体制にあった。科挙制度はなかったが、冊封をとおして清の文化のもとにあった。軍事的に薩摩の支配のもとにおかれ、清と二重支配の中で東北アジアの交易外交で生き抜いた国であった。
 第三、明治に入って「琉球処分」で日本に併合された。その後日本支配の中で、差別と植民地的状況におかれ、戦後は米軍の統治のもとで生きた。
 第四に1945年から72年まで日本国憲法の法体系になく、米軍の法であった。72年日本へ復帰したが軍事基地は残り、産業、経済、インフラは遅々として進まず、今日に至っている。このまま基地と治外法権と地位協定は残されたまま、これから50年、60年と続くのか。
 以上のことを認識しつつ、「沖縄からアジア太平洋全域」の平和と人々の交流を考えることの意義を深くかみしめたいと思う。

多くの人が「フェスティバル in 沖縄」への参加を!!

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