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2013.8.22⇒

                             合掌
<2013年08月16日の投稿>
最大の敬意をこめて。                   
合掌 釋仁空

『中日新聞』 13.08.16
97歳 救いの灯守る
戦傷者引っ張り40年闘いなお
千種の女性 追悼祭に参列
「援護法の制定まで生きる」 

 空襲被害に遭った民間人らの救済を目指す「全国戦災傷害者連絡会」(全傷連)の会長杉山千佐子さん(九七)=名古屋市千種区=が十五日、同市熱田区の宮の渡し公園で、終戦の日の追悼祭に参列した。運動の先頭に立って四十年。最近は床に伏せることが多く、心は折れずとも、身体がつらくなってきた。それでも「戦時災害援護法の制定まで、なお生きよう」と気力を振り絞る。

 杉山さんは二十九歳だった一九四五年三月の名古屋空襲で左目を失い、腕にまひが残る。七二年に東海地方を中心とした全傷連を立ち上げ、戦傷者救済に向けた援護法制定運動を引っ張ってきた。
 軍人は国が補償するのに、民間の戦傷者は放置されている理不尽さへの憤りが原動力。

 「戦傷者は手足を失い、生活を失い、国からは見捨てられた」。国会に提出された援護法実は過去十四回も廃案になり、高い壁に阻まれ続けた。
 近年、残った右目の視力はばとんどなく、耳も聞こえづらくなった杉山さん。市営住宅での一人暮らしは訪問介護を受け、食事以外はほとんど寝たきりの状態だ。二月には肺炎になりかけ、四月には帯状疱疹になった。
 六月には立教大で学生を前に講演するまでに回復したが、エアコン嫌いの身に猛暑はこたえる。支援者が「施設に入ると運動ができなくなる」と渋る杉山さんを説得し、九月の全傷連集会を最後に、養護老人ホームへの入所を検討する。
 それでも「何とかして援護法を制定するのが私の夢、希望。諦めない」と語気を強める杉山さん。しかし、この日の昼、補聴器を通してテレビから聞こえたのは耳を疑う声だった。
 「不戦の誓い」に触れなかった安倍晋三首相の全国戦没者追悼式での式辞。「二度と戦争をしないと誓った憲法を改正すれば、私と同じような被害者が出る。そのとき国はまた、国民を使い捨てにするのか」。怒りが込み上げた。
 杉山さんを中心とした援護法制定への動きは、数年前から東京や大阪の戦傷者に広がりを見せ、二〇一〇年には全国組織が発足した。休眠状態だった超党派の議員連盟は、今秋の臨時国会で態勢を立て直し、法案提出に動きだす。
 追悼祭の後、杉山さんは、ほかの参列者とともに夕暮れの堀川に精霊流しをした。二年前までは自ら柵を越えて水面に灯籠を浮かべたが、「今は無理。ひっくり返る」。支援者に口述し、灯籠に黒いペンで記した。「法制定まで、わが命をお守り下さい」
◇◇◇
 杉山さんの半生を描いたドキュメンタリー番組「届かぬ訴え~空襲被害者の戦後~」が十七日午後十一時から、NHK・Eテレで放送された。


<2013月8月19日の投稿>
小さな小さな史料ですが、南京虐殺の証言です。新発見の史料です。
記事の見出しには「南京虐殺」の文字はありません。
しかし、本文には・・・。

小さな小さな史料を、大きな大きな平和へ繋げます。

合掌 釋仁空

『中日新聞』2013.08.15

戦況記す無傷の手紙
敵屍の浮かぶを押しのけて・・・
日中戦争出征旧陸軍兵が残す
投函されず検閲免れ遺族に

 日中戦争(一九三七~四五年)で戦死した名古屋市出身の旧陸軍上等兵の手紙が、戦地から投函されないまま、遺品とともに家族のもとに送られ、保管されていた。
「生々しき敵屍の浮かぷを押しのけて、クリーク(小川)の水にて飯盒炊さん」。検閲を受けなかったと思われる裸の便箋には、所属部隊の陣容や行程といった軍事機密と戦地の惨状、心情がつづられている。(奥田哲平)

 上等兵は、名古屋市東区(当時)に住んでいた中島良蔵さん。呉服の外商をしていた三七年十月に召集。二男三女を持つ三十六歳だった。
 福井県鯖江市が拠点の歩兵三六連隊の一員として中国戦線に加わり、七カ月後の三八年五月に中国・徐州で戦死した。
 手紙を調査した愛知県立大の倉橋正直名誉教授(中国近代史)によると、手紙は便箋が計十枚。封筒に入っておらず四つ折りになっていた。「長谷川様」に宛てたと記されているが、誰を指すのかは分かっていない。
 中島さんが三七年十一月に上海に上陸してから、十二月十三日の南京陥落に至る約三百㌔の行程で、戦闘状況や部隊の動きを日付入りで詳細につづっている。
 「道もなき果てなき広野に、膝を没する泥濘、渡るに橋なきクリーク。宿るに家もなき雨の夜、行軍急なるため、大小行李(弾薬)不続。糧秣(食種)欠乏。コレラ菌に人も馬も、いかに苦しめられし事や」
 部隊はその後、南京戦に参戦する。
 「九日午前五時、全軍に先んじて光華門城壁に達す。壮烈無比。血戦・肉弾、重ねに重ねて猛攻。ついに宿望なれり。南京一番乗り」
 手紙には日付が書かれており、部隊が休養を兼ねて上海近郊まで後退した三八年一月三十日にまとめて書かれたとみられる。その際、三百人余りいた味方の兵力は六十五人に減っていた。
 「幸か不幸かねいまだに生き永らえ居る事、洵に奇跡的にて傷つき倒れし戦友を数え思ふ時、淋しくも心苦しむ」
 倉橋教授によれば、兵士が日本にいる家族らに送った軍事郵便ははがきが多く、長い手紙は許されなかった。内容も部隊の場所や陣容は検閲で黒塗りになった。「せっかく書いても郵送できないの
で、手元に持っていたのだろう。遺品として届けられたことで貴重な証言が残った。生々しい記憶のうちに詳細に戦闘状況を記しており、資料的価値は高い」と話す。
 手紙は九枚目で締めくくられ、十枚目の便箋は箇条書きの五項目が書かれていた。南京での捕虜を「毎日のように撃ったり突いたり、揚子江へどぶんどぶん落とす」との一文もあった。「次の手紙のための備忘線だったと思われる」と倉橋教授。だが、再び最前線へ向かった中島さんが、手紙の続きを書くことはなかった。

 父が死んだ戦争何だった
 長男図書館通い関連書籍を読破

 中島良蔵さんの遺品は昨年九月に七十八歳で亡くなった長男励さんが保管していた。「父が死んだ戦争とは何だったのか知りたい」。三歳の時に良蔵さんの出征を見送った励さんは生前、戦争関連の書籍を読みあさっていたという。励さんの妻成子さん(七七)によると、良蔵さん一家は名古屋から岐阜県大垣市に疎開。戦後は、妻いなさんが裁縫仕事で女手一つ、子ども五人を育でた。
 励さんは奨学金を得て大垣工業高校を卒業。電気技師として働いた。貧しさから進学できず、図書館で戦争について調べた。亡くなった時に残された書籍は六百冊に上った。
 いなさんから引き継いだ遺品を何度も見返していた励さん。「召集されたのだから仕方ない」と父の死を納得しようとする一方、「軍部が引くに引けなくなり戦争が続いた。早くやめれば原爆も落ちなかったはず」とも語っていたという。
 遺品は手紙のほか、軍事郵便や軍隊手帳、出征時の写真など。励さんの死去後に見つかった遺言に基づき、愛知県と名古屋市でつくる「戦争に関する資料館調査会」に寄贈した。成子さんは「自分の人生を変えた戦争の歴史を、若い人に知ってほしいと思ったのでしょう」と話した。


<2013年8月20日の投稿>
すみません、連発しています。
これで一区切りです。

合掌 釋仁空

『毎日新聞』13.08.08
アジアと向き合う 戦後68年のニッポン
日中間に翻弄され 「故郷」戻れぬ観音像

 政治に翻弄され、日本と中国の闇で宙に浮いてしまった千手観音像が名古屋にある。日中戦争さなかの1941年、中国の南京から「両国の戦没者の供養」のために贈られたものだ。交流を続ける中国の人たちのために、帰らせてあげたい。そう願い、天竺桂尚穂さん(72)が南京を訪ねるようになって10年以上が過ぎた。
 名古屋市東部の丘に建つ「平和堂」。千手観音像は、普段は公開されることなく、ここにひっそりと安置されている。寄贈を受けた団体は既に消滅した。今は、所有者もいない。傷みが進むが、「政教分離」の原則もあり、平和堂を管理する市は修復費を出せない。
 「やっと見つけた」。十数年前、天竺桂さんは初めて観音像を見た。白身は日本から中国に贈られた、もう一つの像に縁がある。
 67年に結婚した時、義母から白黒の写真を見せてもらった。戦前、妻の祖父が私財を投じて建立し、名古屋の寺に納めた十一面観音像が写っていた。その後、南京に贈られたという。高さ10㍍。「木造で世界一」といわれた大きさに驚いた。
 興味を引かれ、会社勤めの合間に観音像について調べた。旧日本軍による「南京大虐殺」から4年後の41年。祖父の観音像が中国側に贈られた。これを南京の名刹・毘盧寺にまつり、寺の本尊だった千手観音像を答礼として日本に贈った。それが、平和堂の観音像だった。
 南京への観音像の寄贈は、軍部が主導した。中国民衆の反日感情をなだめる工作だったとみられている。海を渡った祖父の観音像は、60年代後半から始まった文化大革命で、寺にあった約3000の仏像もろとも紅衛兵に破壊された。
 天竺桂さんは2003年に仲間たちと、毘盧寺を訪れた。再建された寺の境内は、参拝者で埋まっていた。日本に贈られた本尊ゆかりの人として歓待された。
 住職と人混みをかき分けていると、次々と手が伸びてきて服を触られた。本堂の真ん中で、人々が、かつてそこにあった本尊の写真を拝んでいた?地元の人たちの思いが伝わってきた。
 「里帰りこそ日中友好につながる」。千手観音像を南京に戻そうと、名古屋市に提案した。
 毘盧寺との交流は続く。南京側には、お返しに「平和の鐘」を作り、名古屋に贈ろうという詰もあった。だが、国同士の関係に阻まれ、進まない。南京大虐殺はなかったと、昨年2月に市長が発言した。尖閣国有化で緊張が高まる。
 「民間の交流で築き上げたものが、簡単に崩れてしまう」。帰郷は、かなわぬ夢で終わってしまうのか。
 市に頼み、平和堂にある千手観音像を見せてもらった。銀箔の上に薄く漆塗りした木造の観音像は、優しい金色の輝きを放っていた。

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