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2015.08.20⇒

   私の戦争体験
             平和こそ最大の合理的配慮

ゆたか福祉会 顧問 富田偉津男

 今日7月15日安倍内閣は戦争法案を強行採決しようとしている。国民の戦争法案反対が50%を上回り、まだ十分審議されていないが70%近くになる情勢でも、安倍内閣・自民党・そして平和の党と自称していた公明党などは、国民に戦争法案の実態がわからないうちに、採決しようとしている
 私は昭和9年5月生まれで今年81歳になる。安倍晋三氏のように戦後生まれと違い、戦争の恐ろしさ、無残さ、そして軍隊のためなら国民を犠牲にする、
冷血な軍国主義をつぶさに体験してきた。
 私が小学校1年生の昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃にて戦争がはじまり、まだ陽も明けやらぬ早朝、校庭に集められ校長から天皇陛下から開戦の詔勅が下されたとの訓示があった。それから2年ぐらいは連戦連勝のニュースばかりで、日本中が沸きかえっていた。
 当時は秘密にされていたが、ミッドウエイ海戦で大敗北を喫し、制空権も制海権もアメリカに握られ、やがて3年生の時にはアメリカ機の空襲が始まった。
兄と一緒に映画劇場で見ていたら、空襲だから帰宅するように言われ、空を見上げたら、B25爆撃機にゼロ戦が挑戦していったが、ライオンにハエがたかるようなもので、撃墜されるのはゼロ戦ばかりであった。
 まだ、庭に防空壕がないころ空襲警報が鳴ると1キロほど離れた神社に歩いて避難、ちょうど帰宅中だった近所の陸軍将校が避難中、焼夷弾が直撃即死した。また、国鉄工機部工場に学徒動員の中学生を引率していた近所の先生が、工場への爆撃で死亡し、自宅に運ばれてきたときには、担架から血がぽたぽた落ちて衝撃を受けた。
 また、クマん蜂のような恰好をしたグラマン戦闘機が、動くものがあれば機銃照射しているのを見て、本当に恐ろしかった。私の住んでいた浜松は飛行場や沢山の軍儒工場があり、空襲が多い都市であり、艦砲射撃も食らった街でもある。そして我が家は昭和18年空襲で爆弾が直撃、防空壕から出たら何もかもなく焼け焦げていた。子供ながらに天皇陛下や新聞は勝利勝利と言っているが
ウソだと直感した。
 軍の制服などの被服を縫製していた我が家は、一瞬のうちにすべての財産を失い、働いていた女工員6人ぐらいを引き連れて、山間地に疎開した。
疎開中は飢えることなく、また空襲に怯える日々はなくなったが、浜松市でその後の空襲で焼け出された人々が、悲惨な姿で大八車を引き放心した表情で逃げてくる姿を見て、戦争はつくづくいやだと思った。
その経験が私の原点となり、組合運動を通じて原水爆禁止運動、沖縄返還闘争に参加していくことになった。憲法9条守れ、戦争反対は私の信念である。

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