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2015.12.15⇒

ポーランド・ドイツ訪問報告Ⅰ

(2015年12月6日~14日Facebook投稿分)
池住義憲
https://www.facebook.com/yoshinori.ikezumi

第一部: アウシュヴィッツを訪ねて…

① 2015年12月6日(日)
アウシュビッツ1
 写真は、アウシュヴィッツ到着直後(11月8日昼過ぎ)に撮ったもの(背中写っているの、私です!)。
11月7~16日の10日間、ポーランドとドイツへ『日本再検証の旅』として仲間・友人20名で行ってきました。
 帰国後あわただしく動き回っていたため遅くなりましたが、今日より連日、facebookで写真と共に報告・共有します。
お楽しみに!

② 2015年12月7日(月)
アウシュビッツ2 アウシュビッツ3
 アウシュヴィッツは、1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻(第二次世界大戦開始)した半年後の1940年4月、ポーランド人の政治犯収容所として建設。
 それが、やがて、ユダヤ人の絶滅収容所に…。アウシュヴィッツだけで少なくとも200万人以上の人が命を落としたと言われている。
鉄道の要衝で軍舎の廃墟があったこと、広い土地で拡張が可能であったこと、市街から離れ隔離が容易だったこと、などが理由で場所が選定された。
 ポーランド南西部のオシフェンチムと呼ばれていた町の郊外で、ドイツが地名をアウシュヴィッツ(Auschwitz)に変更。戦後は元の地名に戻し、今日ではオシフェンチムという。
 ユダヤ人絶滅収容所は、この他にもポーランド北部のトレブリンカなど5カ所あり、計600万人もの人たちが殺されたという…。
 写真は、「死の門」と呼ばれたアウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウ(Birkenau)の正面入口。この鉄道レールで輸送され、正面の監視塔下をくぐって中に入る。ゲートは、「お前たちの出口は煙突だけだ」(中谷剛著『アウシュヴィッツ博物館案内』凱風社、2012年)と言っているように見える…。

③ 2015年12月8日(火)
アウシュビッツ4 アウシュビッツ5 アウシュビッツ6
 「死の門」の先で線路が3本に分かれ、鉄道用荷卸し場(ランぺ)がある。何日間も貨物車両に閉じ込められていたユダヤ人は、ここで降ろされる。
 この線路の横で、生死の「選別」が行われる。列車を降りた人たちは、すぐに女性/子どもと男性の2組に分けられる。軍服を着た医師が、「お前は右へ」「お前は左」と指示。力があり健康そうで働けそうな約3割のユダヤ人は、労働のために左側の収容所へ。働けないとみなされた残り7割の老人や病人・妊婦・子供たちは、強制収容所に収容される。そのほとんどはガス室に追いやられた。それ以外の選択肢は、ない。
 展示パネルにある写真は、当時の実際の写真。私は、3本の線路の分岐点に立ったまま、しばらく動かなかった。動けなかったから。

④ 2015年12月9日(水)
アウシュビッツ7 アウシュビッツ8 アウシュビッツ9
 収容所に送られてきたユダヤ人の多くは、「欧州東部に“移住”するための輸送だ」と騙されて連れてこられた。みな、自分たちのもっとも大切な財産を持って…。
 展示パネルは、アウシュヴィッツが最大の収容所であること、1940年から1945年1月ソヴィエト赤軍によって解放されるまで、少なくとも130万人の人たちをアウシュヴィッツに強制移送したと記されている。内訳も記して。
  1,100,000人  ユダヤ人
   140,000人  ポーランド人
    23,000人  ロマ・シンティ(“ジプシー”)
    15,000人  ソ連軍戦争捕虜
    25,000人  その他
 多くは巨大なガス室で殺害され、5基の焼却炉で犠牲者を焼却した。灰は肥料として使ったり、周辺の池や川に撒いて捨てた…。

⑤ 2015年12月10日(木)
アウシュビッツ10 アウシュビッツ11
 模型の写真の左側は、地下の脱衣所。地上で生死の「選別」をされた後、入浴(シャワー)が待っていると信じ込ませ、親衛隊員(SS)が服を脱ぐよう命じる。そして、浴室に見せかけた“浴室”(一枚目写真右側)へ。
 数百人、多い時は千人以上も一緒に“浴室”に入れる。天井にはシャワー機器が取り付けてあるが、水が出ることはない。
ガス室の扉を閉められ、天井の小さな穴から毒ガス「チクロンB」が投入される。15~20分で、皆、窒息死したという。親衛隊員は死体から金歯を抜き、髪を切り、指輪やピアスを取り去り、焼却場へ死体を運ぶ。
 「チクロンB」は、以前、消毒目的で使用されていたもの。それが、1941年8月以降、大量虐殺の手段として使用される。気化が容易なため、金属製の缶に密閉されていた。もう一枚の写真は、解放後、収容所の倉庫で見つかった「チクロンB」の空き缶の山。
一室だけ残されてあるガス室に入り、私一人だけになった時、何とも言えない空気の重たさを感じた…。

⑥ 2015年12月11日(金)
アウシュビッツ12
 昨日(12/10)投稿の下記部分に関する追加の写真を一枚!
これが、ガス室内部の写真です。(→『一室だけ残されてあるガス室に入り、私一人だけになった時、何とも言えない空気の重たさを感じた…』)

⑦ 2015年12月12日(土)
アウシュビッツ13 アウシュビッツ14 アウシュビッツ15
 『 Arbeit macht frei 』(働けば自由になれる)!
強制収容所アウシュヴィッツⅠ正門ゲートに掲げられている標語。被収容者はこの門を毎日くぐり、十数時間の重労働を終えて戻ってくる。命が続き、働き続けることができる限りは。その先には、衰弱死、餓死、処刑、劣悪な生活条件のなかでの病死等が待っている。
 展示パネルの当時の写真は、ゲート入った右側建物を背に、マーチを演奏する「囚人楽団」。被収容者の行進を整然と行わせ、人員点呼を容易にするために。
     *
 この標語、状況・内容は異なりますが、福島県双葉町に掲げられている下記の原発PR標語と共通しているところ、ありますね。人を欺き、取り返しのつかない惨禍を生んだ/生んでいる、という点で。
『原子力 明るい未来の エネルギー』!!

⑧ 2015年12月13日(日)
アウシュビッツ16 アウシュビッツ17
 1945年1月、アウシュヴィッツはソ連軍により、解放。博物館には、証拠隠滅を免れて残されていた何千もの靴や服、カバン、毛髪、ブラシ、メガネなどが展示されている。
 私は、靴の前とくに人形の隣にある子どもの小さな靴の前で、足が止まった。この靴には、これを履いていた子どもの、短い人生ではあったとしても、その子の想い、願い、夢、喜びがびっしり詰まっている…。
 死者数・犠牲者数を、「数値データ」として受け取り理解している限りは、そうした一人ひとりが歩んだ人生、生き方は見えてこない。その子が、その人が追い続けた夢と希望、願いは感じとれない。
 「現場を訪れる」「現場に立つ」ということは、当時ここにいた、当時この靴を履いていた子どもに思いを馳せること。
過去に向き合うということ、歴史の一端に向き合うということが、少し解ってきた。


⑨ 2015年12月14日(月)
アウシュビッツ18
 「過去が 私たちを 追いかけている…」
 これは、ベルリン在住ロシア人青年の一言。
アウシュヴィッツをあとにして、ベルリンへ移動。そして11月14日、ベルリン市内の歴史博物館『テロのトポグラフィー』を訪問。その時、案内ガイドをしてくれたのが写真中央のロシア人青年です。
この歴史博物館は、各地におけるゲシュタポの非人道・虐殺行為を展示しているところ。一通り案内が終わり、最後の挨拶で述べたのが冒頭の言葉。
 彼は、今はベルリンでナチス・ドイツの残虐行為をガイドとして解き明かして説明しているが、いつの日か自国ロシアに戻りたい、と言う。1933年の旧ソ連飢饉政策から始まって第二次世界大戦後の反ユダヤ政策など、スターリン独裁時代に行われた歴史事実解明は、未だ行われていない。彼にとって、過去は、まだ過ぎ去っていない。今も「過去が自分追いかけている」、という。
     *
 この思い、この言葉。私たち日本人にも、同じことが言える。1895年から1945年までの50年間、日本が行ったアジア・太平洋地域への植民地支配と侵略の歴史…。その過去が、今も私を追いかけている。
過去は、過ぎ去っていない。歴史事実に正面から向き合い、事実解明し、正しい歴史認識を持つ。それに基づいて心からの「反省」、「謝罪」、「賠償」が為されなければ。

(これで第一部『アウシュヴィッツを訪ねて…』を終了! 明日から第二部『ドイツと日本、過去との向き合い方のちがい』を連日投稿予定です)

(つづく)

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