Quick Homepage Maker is easy, simple, pretty Website Building System

2015.12.16⇒

韓日勞災交流の想い出

(想い出シリーズ1)
源進職業病管理財團理事長 朴賢緒

 91年10 月 のある日、当時は源進職業病對策協議會・議長の職責を持っていた時のことである。“舍堂醫院”付属研究室の朴費浩さんから電話があり「先生は日本語が上手でしよう? 日本からお客さんが見えましたので、源進の患者さんにご案内を願います」と 。翌日の朝、約束の「Palaceホテル」に着いたら二人の方が待っていた。 早速、名刺を交わしたら一人は熊本医大の原田正純先生、もう一人は菊陽病院の樺島啓吉先生。 20kmほどの九里市に向け運転しながら日本語を喋り出したら思ったよりべらべら出たので我ながら驚いた。46年ぶりの初めての日本語使いであったからである 。
 前もって知らせたので、待機していた源進息者たちの検診が始まった。 私の左に原田先生が、右に樺島先生が座り、各々患者さんたちを聞診、触診等しながら、病歴や症状などをいちいちメモするのを見て感動した。 同時に二人の通訳は出來ないから、右側の通訳で5、6分以上かかったが、それが終わると今度は左側の通訳というわけで、昼食の間を除いて6時間以上の検診強行軍は終わった。 原田先生は翌日帰国されたが、樺島先生はその翌日まで検診して 国された。 兩人は「日本の息者と症状が全く同じ」と語られた。
この出會いが日韓労災交流の始發点になったのは言うまでも無い。原田先生は、其の翌年一月中旬にも來韓し、金峰煥さんの一周忌の通夜の場場にも参席され、被災者団体の総務であった丘冀一さんと症状の詳しい話を交し、その翌日には基督教病院(今の緑色病院) に長期入院していた洪元杓さんを見舞いして帰國された。

 翌92年の7 月初旬 に、再び原田先生から連絡があった。息者代表の一人( 鄭動模) 、医者の一人(朴桂烈) , 衛生技師の一人( 李允根) 、そして案内通訳として私の4 人が九州の熊本市に招かれた。熊本空港に出迎えた原田先生は、一行を車に乘せて八代市に向った。 八代市では先ず「興人會社」の労災息者たちと交流する傍ら、水俣の明水園や阿蘇山の火口なども案内巡りをし、4泊した後別れ、一行4人は列車で京都に向かった。
 京都では3泊したが 、職對連主催の盛大な交流夕食に参席し、翌日にはユニチカ工場や平等院そして奈良見學まで終えた。 京都 在3 日目にあたる日の夕方には、前もって連絡しておいたので大阪の友人の家に泊つていた妻が、一向との別れの夕食會に顔を出し、お話しなど分かちあった後、一行3人は帰国した。
 私達夫婦は其の翌日、列車で東京に行き上野で1泊した後、早朝に宇都宮に行った。駅前でタクシーに乘り中 寺湖に向つたが、途中にはあの鉱毒水流しで有名な足尾銅山があり、環境性災害についても深く考えさせられた。 そして中禅寺湖に着いたら、回りの樹木に白い花がいっぱい咲いているのに凄く驚いた。近づいて見るとなんとそれは花ではなく、御神籤の結びがいっぱい掛けられていたのである。日本人一般のアニメ信仰の深さを改めて感じさせられた。 華厳の滝では、水しぶきを浴びながら、下まで降りて観覧したのも樂しみを深くした。
 中禅寺巡りを終えたが、今度は広島に行かねばならない日程であった。広島江の道で「第3回 中國人・朝鮮人・強制連行強制労働を考える全国集會」に参加するためである。妻は大阪の友人の家で泊ることにし、集會が終わる時期に、広島の駅前で再會することを約東して別れた。私個人としても、これが生まれて初めての日本訪問旅行であった。
 後で聞けば、この日韓労災交流を支援して頂いたのは「医療法人・芳和會」が主たる支援者だったらしいとのことである 。開係して頂いた皆さんに深い感謝の念を表するところである。

 その年の1 2 月初旬、またもや原田先生から連絡があり12月20日? 頃に八代で労災シンポジウムがあるので息者代表一人を伴って來るようにと。こんどは患者代表として、女性の朴雙順さんが選ばれ、彼女の案内通訳を引き受けることになった。 然し私は他の用件で、其の前に東京に行かねばならず、東京での用件を済ました後、熊本の空港で彼女の到着を待って案内することを事前に約東しておいた。(次章参照)
 ンンポジウムの席上、彼女が韓國における労災現況を簡単に報告し、日本側から「労災間題の法的検討」を國旨直子弁護士が行った。翌日は「興人會社」を一巡りしたが、正門内の第二労組事務室を指しながら、当時反會社側労組と會社側労組との激しい軋轢話など、今は故人になった岡田さんが奈熱心に説明してくれた。

 源進財団がつくられる直前の93年10月には、熊本組(私なりにそう呼ぶ) が杖つきの息者を含めた数名が來韓し、こちら源進息者たちと深い交流を持つたことは言うまでも無い。いつもなら固く鍵がかかっていた筈の源進工場の正門が開いていたので、一行は 地内に入る事が出來、 2 階にあがって工場内部を覗いて見た。岡田さんは「興人會社の仕掛けと全く同じでずさんなものだ」と嘆いていた。

 その後、数えきれないほど訪韓して日韓 兩國労災交流を深めて頂いた重要なメンバーには、熊本の北岡秀雄 さんや千葉昌秋さん、長谷川博さんがあげられる。99年6月の「源進緑色病院」開院の時や、翌年6月の「日韓労災シンポジウム」の時も、そして 03 年9 月の「緑色病院」 開院の時も欠かさず御來韓 れるなど、相変わらずの友情を保っている上記の方達に- 改めて敬意を表したい。

 熊本組が來韓交流した1 ヶ月後には、京都職對連 (事務局長清水良子) の方達が息者を伴って訪韓し、やはり深い労災交流を結んで帰國された。京都組とは、その後も吉中丈志(京都民医連中央病院長)さん及び宇治の「あさくら診療所'」の行松龍美さんや市議會議員の宮本繁夫さんらとの交流は、今尚絶えていない事を付け加えたい。 そしてその時案内してくれた通訳ガイドの金清子さん(故人)、そして名古屋の金澤克彦さんとは、今も親しく付合っている 。

 こんなエピソードもある 。私は93年9 月台湾環境保護連盟の招待を受けて、貢料に建設を予定していた第4 原發反對運動に参加したことがある。建設反對運動が終わった後、招待側の案内で東北にある宜蘭縣の道教本山を参観 した。その帰り道で交通信号の待機中に偶然、左側に「羅東化學維會社」の看板が目に入った。通訳を通じて運転手に「レーヨンを生産するのか」と訊ねたら、「そうらしい」との答え。 「患者も出ているらしいが・・・ 、 台北市に日本人のお医者がいるから彼は良く知っているでしょう」との答えた。その話を熊本の北岡さんに伝えたら、上記のメンバー等は早速台湾に行って來たそうだが、詳しい事情は掴めなかったとのこと。それだけではない。 源進が倒産した後、その機械を古鐡として払下げたがそれが、何と中国遼寧省丹東市の某工場で今も稼働中との話をやはり北岡さんに伝えた。熊本組の一行が又、その詮索に出かけたが、確認は出來なかったとの話を聞いたことがある。被災者の國際連帶摸索に注いだ彼らの熱意には感動するばかり。

 「八代の興人」の労災救濟のためのタンポポの花は、「宇治のユニチカ」に飛び、海を渡って「韓國の源進」に飛び、更に宜蘭や丹東にまで飛ぶ筈だったと言えるだろう。八代の労災闘争のタンポポの花は、悩んで苦しむ働く人々 の永違な記念碑になるだろう。

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional